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【表紙写真】山ト食品㈱ 永沼純子社長
会員企業名 | 山ト食品㈱ | 設立 | 1975年 |
会員名 | 永沼 純子 | 業種 | 食料品製造業 |
所属支部 | 三島支部 | 社員数 | 社員16名・パート2名 |
会暦 | 2005年4月入会 | 事業内容 | 惣菜・弁当・菓子製造販売 |
牛乳寒天を手にする永沼純子氏
創業は街の豆腐屋さん
山ト食品㈱は、城山の麓ののどかな田園風景の中にあります。現在、牛乳寒天は25品目、弁当の他、惣菜は約20品目を製造。大手食品スーパーに商品が並ぶ他、地元介護事業所や温泉旅館の賄い弁当、仕出し弁当を手掛けます。
昭和26年に実父が創業、当初は地元の豆腐屋でした。ラッパを吹いて売っていたと言います。昭和50年の法人化を経て、一時は東部地区のスーパーに卸していましたが、地域密着を目指す為に卸を止めて、地域の小売店や給食センターへの販売、行商販売に転換しました。しかし豆腐のみでの経営に限界を感じ、惣菜を始める様になり、当時は専業主婦だった永沼氏が担当することになり、第1歩は自宅の台所でした。化学調味料を一切使わない「家庭の味」をモットーに製造を開始しました。
左・永沼純子氏 右・三田宏一氏(取材者)
愛情のこもったデザートが全国的スイーツに
今でこそ、全国のお店に置かれている牛乳寒天、永沼氏が日本で初めて製造販売したと言います。初めは売り物として作ったのではなく、3人の我が子が仲良く食べられるオヤツとして作ったものでした。材料も健康に配慮し、牛乳、寒天、砂糖以外は一切使わず、まさにお母さんの愛情溢れるデザートだったのです。
近所の子供達にも配ったら好評だったので、行商販売、地元のパン屋で売ってもらいました。その後、平成13年に大手食品スーパーの社長から、牛乳寒天を販売したいとの要請があり、それが広まるキッカケとなりました。手作りだった為、最初は1日に30個生産するのが精一杯だったそうです。
東部地区で売れた事で、同スーパーの西部地区店舗へ、そして神奈川へと商品が行き渡り、あっと言う間に全国的に広がりました。ピーク時には一日4000個を製造、西は宮崎から東は埼玉まで広がり、全国の寒天部門でシェア全国1位になりました。フーデックスなど大規模な展示会に出店、この間、人員を増やし充填設備を入れて大量生産に応えうる体制を整えましたが、それでも午前3時から夜10時まで働く多忙な状態でした。この間、各方面からの要望に応えてカップ化、果物を変えるなど、PB商品をいれると25品目になりました。品数と生産量の増加の渦中、平成14年に主人が担当の豆腐製造業は、病気のため幕を下ろし菓子部門と弁当部門に絞りました。
同友会に入会しての気づき
そんな最中の平成17年に同友会に入りました。忙しい時ほどパワーが出る。同友会で勉強する事で自分を奮い立たせ、自問自答したとき「自己満足」に気づいたと言います。「自分が美味しくても、人が美味しいとは限らない」ということです。また、同友会の仲間に「いつまでも売れると思うな牛乳寒天」と言われた事もきっかけでした。
その後、ブームが去った様に需要が減り始め、現状では一日約1800個の製造で落ち着いているそうです。しかし、永沼氏は、どんなに良い商品を作ろうとしても、子供達に作っていた頃の味には敵わないと言います。大量生産の中で失われていったものがある事に気づきました。現在、スイーツはスーパーからコンビニの時代へ、その中で選んでもらえるスイーツ、それは原点の牛乳寒天にあると言います。元祖である牛乳寒天に絞り込みたい気持ちを持っています。
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原点回帰と地域貢献
一方、従業員の高齢化も進みました。この仕事は細かく辛抱強さが必要との事。若い人は作業が飽きてしまうのです。永沼氏は商品開発に新たに2名を配置しました。自分の売りたいものを徹底的に作りあげる事で、「やりがいを持てる」ようにする為です。
町興こしイベントで、4月から地元高校が作るレアチーズケーキを製造技術から商品化、販売まで山ト食品が手掛ける予定です。30年前から、食に対して「安全・安心」をモットーに、化学調味料を一切使わない製品を作り続けてきた拘りへの回帰、長年商店街の豆腐屋として地域に育まれ、支えられきた感謝の気持ちを、地域貢献で恩返ししていきたいと永沼氏は言います。
以前、地元で行われた体育イベントに参加した遠方の中学生の親から、「美味しくて家族ともども好評でした、またお願いします」と、送られたお弁当の注文書を見て満面の笑みを浮かべていた永沼氏が印象的でした。