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山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と-
備中 吹屋ふるさとを村へ ①
5月18日(土)。岡山駅から伯備線で備中高梁まで約30分。駅前にはすでに先発の「小松ゼミ」の仲間が私たちを待っていた。元気なオヤジさんの呼び込みに駅前の食堂で昼食。「ままかり」のチラシずしを食べ、二台のタクシーで出発。水量豊かな高梁川を伯備線に沿って北上。対岸に迫った緑深い山々を眺めながら、山田方谷の活用した高瀬舟の運行を想像していた。
今年2月から始めた小松ゼミのテーマは童門冬二著「山田方谷」だった。 備中松山藩の家老で困窮した藩の財政を立て直した農民出身で陽明学に通じた学者。藩財政改革8年の中で、100億円の負債から100億円の藩資産を積み上げ、その過程で兌換できる貨幣を用意し、価値が暴落した藩札を3年がかりで集め、河原で焼いてしまうという実行力のある政治家として有名である。
幕末から明治維新の激動期の中で活躍した人々に大きな影響を与えた。越後長岡藩の河井継之助は方谷を藩政改革の師として学び、北越戊辰戦争の時に藩主から筆頭家老として責任を任される。ゼミでは方谷や継之助が近代化の波に抗いながら、それぞれが果たした歴史的な役割と生き様に学び、リーマンショックやアベノミクスに揺れる現代の経済状況の中で、中小企業家としてどう生きていくかを自らに問うテーマだった。回を追う毎に話題は広がり、方谷の政治哲学を支えた陽明学とそれを受け継いだ河井継之助の生き方についても報告がなされ、ゼミは大きく盛り上がった。当初から予定していた方谷の故郷・備中高梁行きが13人になった。
旅の初日は深い山中にある「備中 吹屋ふるさと村」へ。標高550mの山嶺に幕末から明治にかけて「銅山とベンガラの町」として栄えた吹屋の村。
いくつかの尾根を超え、曲がりくねった坂道を抜けて、突然広々とした台地に出た。遙か見上げるような山腹を垂直に削り取り、そこにはめ込むようにして建てられた広大な邸宅。徳川末期に建てられた「広兼邸」だ。それを支える石垣は城郭にまがうばかりで、台地を横切りあえぎながら石段を登って建物に入る。母屋・楼門・土蔵・桜門の建物は当時の富豪を偲ばせ、庭園には水琴窟があった。柄杓で水を注ぎ、耳を当てると深い地中から艶やかな音が聞こえてきた。
「吉岡(吹屋)銅山 笹畝坑道」「ベンガラ館」をまわり、備中吹屋の街並みへ。標高550㍍の山稜に、ベンガラ格子に赤道色の石州瓦、妻入りの切妻型、平入型式等が印象的な風情でたたずむ商家・町家が街道沿いに並ぶ。江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて、江戸後期からベンガラの生産が重なり、鉱工業地として繁盛した。幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られた。また吹屋街道の拠点として、銅や中国山地で生産された砂鉄、薪炭、雑穀を集散する問屋も多く、そこから弁柄と一緒に成羽から高瀬舟で玉島港に集められ、上方や西国へ輸送された。旧片山家は吹屋ベンガラが栄えた江戸時代後期~明治時代の屋敷構えをのこしていた。家の木組みは栗や桜の巨材を使い、書院まわりは生漆と弁柄で塗り上げてある。土間に山田方谷が揮毫した木斛がガラスケース中に納められていた。 街並みの裏手の小高い丘を越えた台地に吹屋小学校があった。明治33年から同42年にかけて建築され、木造校舎としては日本一古く、つい最近まで使用されていた。後ろに松林を背負い、正面に玄関を配した総2階建ての校舎のたたずまいは、ふと遠い昔の懐かしい思い出を蘇らせた。
高梁川に戻って北上すると伯備線の方谷駅があった。全員で駅前で記念撮影。 全国に人名の駅名は2カ所だけだそうだ。地元の人達の思いが伝わり、私たちも居住跡で長瀬塾でもあった場所にたって、方谷を慕う弟子達との交流に思いを巡らせていた。
その夜は高梁市内の方谷に縁のある「油屋旅館」に宿泊。明治期に建築された木造三階をもつ宿で、かって三階には歌人与謝野晶子、鉄幹夫妻も宿泊した。前は道路を隔てて高梁川。古色蒼然とした二階の広間で宴会。次々に運ばれる料理に舌鼓をうちながら歓談。ひそかに期待した高梁川の鮎は解禁に間に合わず養殖ものだった。昼間の高揚した気持ちが収まらず、全員今日の感想をということになった。方谷の薄幸だった家庭生活や方谷と陽明学、河井継之助との別れ、また先生からは方谷と吹屋ベンガラの豪商との関係は未だ流布されてないが興味ある問題だと提起された。弁柄の豪商と松山藩の財政改革とどんな繋がりがあっただろうか。話題の尽きない夜となった。