山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と-③

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山田方谷を巡る旅 -小松ゼミの仲間と- 

                論語を朗誦している閑谷学校を訪ねる 

 

   三日目、岡山駅前からタクシー2台で岡山旭東病院へ向かう。岡山同友会の元代表理事で院長の土井彰弘様を訪ね、病院経営についてお話しを伺った。 同友会の「企業訪問」である。マニフェストとして「岡山旭東病院は、脳・神経・運動器疾患の総合的専門病院として、患者さまの目線に立った医療を提供し、医療サービスの品質を高めるため、教育(共に育つ)、高度先進医療機器の導入、療養環境の整備、音楽や絵画・料理・庭園・生花の整備・クリニクラウンの活動など文化(芸術)との融合に全職員がコラボレーションし、治療効果を上げるべく努力していきます」。そして”癒し・笑い・ユーモアを取り入れ、病院の新しい文化を創ります”(当日の土井先生の説明とHPから)とある。正面玄関から入った患者さんの待合室の雰囲気が大変に穏やかだったのが印象的でした。いくつかの待合室を通りすぎたが、何処も同じ雰囲気で、患者さんの笑顔やスタッフの手ぶり、身ぶりの会話もゆったりとした安心感がただよっていた。また説明の中で看護士さんの人数が他の病院の倍近くで、なお採算を合わせていく病院経営の話を聞きましたが、白い巨大な医療機器に描かれたやさしい手書きの絵や、「こそ丸」君のユーモアなど病院全体が醸し出す穏やかさの中に秘められた、岡山旭東病院の経営理念を見た思いでした。病院食とは思えないお昼を頂き、今回の旅行で一番美味しかったと若い梅屋さんと顔を見合わせました。「病気を治すと同時に本来の人間も取りもどす病院だ!」病院の外に出て、強い陽の光と喧噪の中に身を置いたとき、特にその思いを強くしました。

 最後の見学地「閑谷学校」はここから一時間はかかる。土井先生のご厚意で先生の車と病院の車を用意してくれてあった。

 寛文6年(1666)岡山城主池田光政が和気郡木谷村の北端にある延原と呼ぶ場所を検分した。古い山陽道と中世以降に出来た山陽道との中間にある山紫水明の静寂境である。季はあたかも晩秋、散り残った黄や紅の紅葉が、爽やかな秋光に映えて、光政の心を楽しませた。「ここに手習所を建てて学問をさせる場所に・・」。1670年、延原を閑谷と改称、仮学校を建てる。(閑谷学校・岩津政右衛門著より)

 緑の山を背負い赤い備後焼きの瓦で覆われ四つの建物で構成される閑谷学校のたたずまいは、今まで全く経験したことのない情景で、一瞬、立っている場所を見失うような錯覚を覚えた。屋根に葺いた備前焼瓦の朱に藍を流した落ち着きのある色調と、講堂の入母屋造り・しころ葺きの大屋根の、流れる様な線の美しさとスケールの大きさは見るものを圧倒する。案内人の説明によると、瓦下には備前焼の細い配水管を入れて雨水への対策を完全にする手の込んだ造りで、瓦と共にその膨大な数量の生産に携わった人々の気の遠くなるような労働の日々は、どれほど豊かで誇り高いものであっただろうか。また内部の欅の十本の丸柱も床も江戸時代から今日に至るまでここに座った生徒達によって拭き込まれ、窓(火灯窓)からの明かりを反射して鈍く光っていた。

 講堂の裏手にある習芸斉は毎月三と八の日に五経と小学の講釈が行われ、朔日(ついたち)の朱文向学規講釈には農民の聴講も許されたという。敷地内には正面に校門があり鶴鳴門とも呼ばれ、棟に鯱を載せるのはこの門だけ。閑谷神社は創始者池田光政を祀っている。聖廟には練り塀の中に孔子像を祀る大成殿と文庫、厨屋がある。これら堅固で壮麗な建築物が完成されたのは、光政の死後、元禄十四年(1717)で、二代目藩主綱政の時。現存する庶民を対象にした(郷学)学校建築物としては世界最古のものといわれている。

 綱政は延宝二年四月(1674)閑谷学校経営の資として、木谷村の内二百七十九石余を学田として付託し、学校が独立した会計をもつことになった。元禄十三年二月、改めて中村の開田を木谷村とし、もとの木谷村を閑谷新田村と改称して永く学田とする書状が綱政から交付された。そして閑谷新田村を備前藩の版図から切り離して、永代閑谷学問所に付与するという措置も行われた。国替えや絶家などの非常事態が発生しても学校だけは存続して経営が出来るという保証が与えられたことになる。しかし一つの村を版図外に置くことは非常にむずかしい作業だった。貞享元年三月にこのことを上申してその準備に十七年を費やした。そして旧木谷村の住民にはそれぞれ移住先と田地を取得させ、充分な手当を与えて立ち退かせた。しかし中村の新田を木谷村に直しただけでは足りず、その不足を友延で取り、その不足を麻宇那で取り、という順で次々に足し、二百七十九石六斗五升八合をうみだし、人々の落ち着く先を定めたと伝えられている。またもとの住民が立ち退いた跡の閑谷新田村には学田下作人を他から集めて入村させたという。(閑谷学校・厳津政右衛門著)現代の政治家が山田方谷と共に池田綱政にも学ぶべき所は多いことを痛感した。

 私が最も興味を引かれたのは、校地を取り巻いている石塀でした。その蒲鉾を伏せたような石塀は、幅1.84㍍、高さは地盤から石塀の上端まで2.1㍍で、そのおおらかな石組みの塀は校門(鶴鳴門)から左右に延長765㍍におよぶ壮大な構築物である。五月の陽に温められた石組みに、手を触れてなお去りがたい思いでした。石組は「切り込みはぎ式」と呼ばれ、基礎に捨て石を置き、瀬山石(水成岩)の切石を両面から合端(あいば)よく積み上げ、上端(うわば)石を蒲鉾型にはめ込んで仕上げてあり、内部には同じ石質の割栗石(わりぐり)を水洗して詰め、いっさいの土気を防ぐ慎重な積み方である。「蒲鉾型石築塀」と呼ばれていると、案内人が教えてくれた。だがどうしてこの様な石築塀が出来たのか、そこに込められた意味は解らなかった。石垣や城壁が鋭角で人を拒絶するものであるのに、この石築塀は人を誘い入れる優しさをもっている。詰め込めた割栗石の中に、当時の石工達の智恵とやさしさを思いめぐらせた。

 山田方谷が六十七才(1872=明治4)の時藩校有終館が閉じられ、翌七十三年二月、方谷の発意により岡山の中川横太郎、岡本巍が奔走、「閑谷精舎」として再興し、方谷を督学(校長)とした。方谷は儒教の勉強では「陽明学」を柱にせよとした。開校時には20名ほどだったが、翌年には100名となり、生徒の中から大原孫三郎、正宗白鳥、三木露風などが輩出した。           

 現在閑谷学校では日用論語が講堂で行われ、朝の一時を論語の一章を朗誦している。先日鎌倉さんが今回の旅行の下検分にきたときには、小学生の論語のカルタ取り大会が行われていたという。また文化講演会や史跡めぐりなど、年間を通して閑谷学校の歴史にちなんだ文化的な催しが行われている。ちなみに頂いた案内の中に、今年の9月に行われる史跡めぐりは閑谷学校の資料館(明治38年建築)の設計者、故江川三郎八の足跡を辿り、江川氏が設計した吹屋小学校本館を訪ねるとありました。私達が辿った山田方谷を巡る旅の最後となった閑谷学校に集う人々が再び吹屋の村を訪ねる偶然を喜び、小松ゼミの至福の一時を過ごさせて頂きました。(先に帰られた皆様、申し訳ありません。)

 

  最後になりましたが旭東病院の土井先生に心から感謝し、何時も沢山の資 料を用意して、いやが上にも旅のロマンをかき立ててくれる鎌倉さんに改め てお礼を申し上げて、この駄文を終わります。 

寄稿:竹内  昭八氏(㈱タケウチ)富士宮支部